2012/2/24 ●Deeksha Bhoomi


昨日せっかくリクシャワーラーに紹介してもらった宿だが、駅裏ということもあり少し不便なので、チェックアウトして駅前のバザールの方で再度宿探しをすることにした。昨日足を運ばなかったエリアでもいくつか当たってみるが、外国人お断りといった対応か、予算に合わないところばかりだった。実は手持ちのインドルピーが少なくなっていたので、あまり料金面で妥協したくなかった。

仕方なく、昨日一度部屋を見せてもらい、あまりの部屋の狭さに断ってしまった宿に行ってみる。機嫌を損ねてしまったかなと思いきや、そんなこともなく淡々としている。昨日見せてもらった400Rsの部屋でなく、さらに狭い2畳ほどの部屋を案内してもらった。ベッドのほかに小さなデスクといすもあるが、それで部屋はいっぱいだ。トイレとシャワーは共同で料金は150Rs。こんなところに宿泊するのはさすがに学生の時以来だなと思いつつも、両替に焦らなくていいのでホッとする。受付で記帳していたら、インド人の宿泊客が「ここがナグプールで一番安い宿だよ」と教えてくれた。

溜まっていた洗濯などを済ませ、外へ出た。Deeksha Bhoomiに向かう。ビームラーオ・アンベードカル博士が生前に仏教に改宗した場所だ。地図で適当に方向だけ確認し、あとはリクシャでも拾って行くつもりだったが、なかなか拾えない。駅前などには多数のオートリクシャやサイクルリクシャが客待ちしているのに、いざ路上で拾おうとしたらたいてい客を乗せて走っていて、空いてるのがない。そのうち、そのうちと思いながら歩く。Deeksha Bhoomiは有名なので道路上に方角を示す看板も出ている。人に尋ねながら、結局かなり(1時間以上)歩き、ようやく到着した。

 

ビームラーオ・アンベードカル博士が30万人の不可触民とともに仏教に改宗したこの地には今、大きなストゥーパのような丸いドーム状の建物が建てられている。隣には氏にちなんだアンベードカル大学が建設され、ちょうど学生が授業を終えて出てくるところだった。

Deeksha Bhoomiの隣に建てられたアンベードカル大学
Deeksha Bhoomiの隣に建てられたアンベードカル大学

Deeksha Bhoomiの中に入ると、きれいに整備された公園に記念碑のようなものが立っている。そばに小さな建物があるので入場料のようなものを払うのかと思い行ってみると、履物を預ける場所だった。?履物を履いたままウロウロしてはいけないのかと思い、自分も預ける。入場料などは必要ないようだ。

『アンベードカルの生涯』ダナンジャーイ・キール 山際素男 訳 を読み、是非アンベードカルにゆかりのある地を訪れてみたいと思っていた。不可触民出身の博士は子どもの時から激しい差別を受けながらも、勉強を重ね、良き理解者に恵まれたおかげもあってアメリカやイギリスに留学を果たし、帰国してからは不可触民の待遇改善に力を費やした人物だ。インド独立後にネルー初代首相に請われて初代法務大臣に就任し、インド共和国憲法に作成に携わった。当時、広いインドを見渡しても憲法作成に取り組める学識を備えた人物はアンベードカル博士しかいなかったとネルーに言わしめ、独立インドを冷めた目で見ていた博士は最終的にネルーに口説き落とされたのだという。インドの貧しい学校に行けばアンベードカル博士とガンジー翁の肖像が並べて飾られている。しかしヴァイシャ出身のガンジーが不可触民に心を寄せるのを偽善者として真っ向から激しく批判したのが、アンベードカル博士だった。

自分は、アンベードカル博士の主張や言動に必ずしも傾倒しているわけではなかった。そして博士の死後にこの地に彼の遺志を継ごうと芽生えた新仏教についても、それほど興味を持てなかった。しかし彼の人間としての生きざま、特に重戦車がF1並みのスピードで疾走するような彼の生き方には強く魅かれるものがあった。自分は博士のような天才とは真逆の、怠惰な凡人でしかない。逆立ちしても彼の真似などできない。それでも才能云々を超えた博士の怒涛のような生きざまには、何か自分を奮い立たせるものを感じずにいられなかった。

記念碑には、博士が改宗の際に読み上げた宣誓文が刻まれていた。英語に訳された面に目をやると、それは衝撃的なものだった。


「私はブラーフマ、ヴィシュヌ、マヘーシュ(シヴァ)のいずれをも神と認めず、神として崇めることはない。」


「私はラーマ、クリシュナのいずれも神と認めず、神として崇めることはない。」


「私は諸々のヒンドゥーの原理、ガウリ(パールヴァッティ)-ガナパティ(ガネーシャ)を神もしくは女神と認めず、崇めることはない」


「私は神が生まれ変わるなどということは信じない。」


「仏陀がビシュヌの生まれ変わりだとするのは誤りであり、有害なプロパガンダである。」


「私はShraddahpakusha(ヒンドゥ教の祖先を祀る祭式)をせず、Pind(ヒンドゥ式のお供え物)を奉じることはない。」


「私はブッダの教えに背くいかなる教えにも従わない。」


「私はブラーミンによって執り行われる儀式には決して参加しない。」

仏教への帰依心や信念というよりもむしろ、こういったヒンドゥ教の徹底的な否定・拒絶の言葉が最初からつらつらと並んでいる。博士は仏教についても若いうちから学んでいたそうだし、まだ自分は読んでいないが博士が世に出した「ブッダとそのダンマ」は名著だと評価されている。決してヒンドゥの否定のために仏教を使ったわけではないのだろうが、多数の彼の追従者とともに、今まさにヒンドゥ教から仏教に転向しようというさなかに、なおもカースト、そしてアウトカースト(不可触民)を内包するヒンドゥ教への攻撃に執着しているような宣誓だった。

Deeksha Bhoomiのストゥーパ 中にはアンベードカル博士の写真が展示されている
Deeksha Bhoomiのストゥーパ 中にはアンベードカル博士の写真が展示されている

ストゥーパの中に入れるようになっていて、中に入ると見学に来ている人たちがまばらながらもいる。ひんやりしていて静かだ。中心には仏像が安置されていて、壁際にはアンベードカル博士の写真パネルなどが掲示されていた。若かりし日の写真はない。カメラ自体が珍しい当時の時代背景もあったのだろうが、不可触民がカメラに収まる機会などなかったのだろう。すでに政治家として一目置かれるようになってからの写真が並んでいる。集会などでスピーチを行っている姿が大半だ。もちろん改宗の際に写した写真も何枚も紹介されていた。この時はすでに目を患っていたのか、黒いサングラスのようなものをかけていて、ずいぶん痩せて手に杖を持っている。最期に息を引き取って葬儀に送られる時の写真もある。当時の慣習で少女婚を果たした夫人と写っているものも多い。夫人は積極的にこの種の集会に参加していたらしい。

ドラム缶のような大きな体躯に丸メガネ、髪をきちっと横わけにし、スピーチ用のマイクにその大きな体をかがめて民衆に訴えかける博士の姿は、どこかおっとりとしていてユーモラスに見える。マハールの軍人家庭に育った影響なのか、燃えるような闘争心で不可触民の解放運動に疾走したその生きざまとはとても対照的だった。白黒の写真パネルを眺めていると、本で読んだだけだった博士の人生が生々しく伝わってきた気がして、不覚にも感極まってしまった。政治家としての博士のスタンスには必ずしも素直に共感できない部分もあった。でももし自分が不可触民に生まれて、博士と同じような苦しみを抱える人生を送っていたら、どうだっただろう。自分のようなものが今インドを訪れても、不可触民がどれだけ差別を受けているかは厚いベールの向こうにうっすらと感じるだけでしかない。これほどの才能に恵まれた人が、当時不可触民として生まれたために、その解放を目指して他のカースト・ヒンドゥーを徹底的に指弾し、排他的ともいえる思想に偏らざるを得なかった理由に共感するところまでは、自分はついていけないのだ。

 


 

ドームを出てウロウロしていると、木陰で写真サービスの人を見かけた。観光地や巡礼地などで時々見かけるが、カメラを持っていないインド人の観光客 のために写真を撮ってあげ、住所を聞いておいて現像後に送ってあげるサービスだ。しかし最近はインド人でもカメラ付きの携帯電話を持っている人も多いし、 デジカメ、ビデオカメラも珍しくなくなってきているので、商売しにくくなっているようだ。ここではなんと、デジカメで撮影し、小さな写真用プリンターでそ の場でプリントしてあげるサービスをしていた。

 

デジタル化が進むと、そういうサービスが出現するのは自然な流れだと思っていたが、実際に目にすると少々驚いた。ご主人がNIKONのデジタル一眼を首か ら下げており、奥さんと思われる女性が日本でも売っていそうなEPSONの小型の写真専用プリンターでプリントしている。データはSDカードで受け取って いるのだろう。料金を聞くと1枚20Rsだという。機器のランニングコストやインクカートリッジ、写真専用紙などのコストを考えると少し疑問を感じるよう な料金設定だが、あまり高いと注文がないのかもしれない。見学に来ていた中学生くらいの子どもたちが何人かプリントされるのを待っているようだった。



写真サービス その場でプリントしてくれる
写真サービス その場でプリントしてくれる
大学前の路上で売られていた『ブッダとそのダンマ』B.R.アンベードカル著
大学前の路上で売られていた『ブッダとそのダンマ』B.R.アンベードカル著



 

宿に帰ってから夜になって近くのEternityというショッピングモールに出かけた。外観はとても大きくおしゃれだが、中に入ると意外に小さく感じる。男女ものから子ども服まで揃った大きめの洋服屋、スーパー、フードコートのほかにゲームセンターなどのほか、3F以上は保険会社などの事務所が入っていた。夜ということもあり客が少なく、照明も暗いので何だか余計に閑散としている。

ゲームセンターに入ってみると、古そうなアーケードゲームが並んでいた。アメリカや日本の中古の物を輸入しているらしい。日本語の説明や\100と書かれたコイン投入口のあるゲーム機もあった。こういうところには家族連れで来るらしく、子どもとお父さんがエアホッケーに興じていたり、一角に設けられたゴーカート・コーナーでキャーキャー言っている。ゲーム機によって料金が異なるが、1回10Rs~20Rs程度、専用のメダルを購入してゲーム機に投入して楽しむらしい。

1回の入り口付近に美容室があった。ユニセックスの美容室自体珍しいが、全面ガラス張りで椅子が数客あり、若い男の子や女の子が美容師に髪を切ってもらっている。それを20人近い若者たちがガラスの外からじっと見ているのだ。日本人の感覚からすれば相当恥ずかしい。

インドでは伝統的に床屋は相当低いカーストの部類に入る。人の体外に排出されるもの、、、汗や髪や髭などを扱う職業は穢れにまみれていると捉えられるのだ。そしてこれらの床屋カーストでは客は男性のみで、女性は対象とされない。最近では女性向けのビューティーパーラーと呼ばれる美容室があちこちにできているが、これは主に女性が経営していて、女性専用となっている。とはいえあまり貧しい女性には敷居の高いようで、貧しい家庭、低カーストの女性は身内に髪を切ってもらうことが多いようだ。

ここにあるユニセックスの美容室は、インドでも決定的に新しい時代のものだろう。男性美容師が若い(おそらく未婚と思われる)女性客の髪を触っている。その横では女性美容師が男性客の髪を触っている。ガラスには99Rsと書かれているのでカット99Rsなのだろうか。日本円では160円程度で、男性が通う伝統的な床屋よりは高いだろうが、ポッシュなショッピングモールに出入りする中間所得層以上の家庭の子息にとっては何ともない金額に違いない。

ひとしきりそれを眺めた後、歩いて宿に帰宅した。