2/22 ●インドマイトリの会で支援をしている学校に同行する 1

この日から本格的に支援している学校を回る。午前中にクシナガラの通り沿いにある2校に行く。インドの子供たちが書いた年賀状に対して、日本の会員が返した返事のはがきを、子供たちに手渡す作業だ。一人一人該当する子供を呼び出してもらい、はがきを渡し、手に持ってもらいながら日本人スタッフの女性が写真を撮影する。子供たちの多くは、少し戸惑いながらも嬉しそうに受け取っている。緊張してカメラの前で笑えない子もいる。

撮影が終わって教室に戻ると、すかさず友達が見せて見せて、とねだっている。はがきもいろいろで、絵葉書もあれば、自分でイラストを描いたようなものもある。こんなことだったら自分も返事を書いておくんだったと後悔した。自分にはがきを書いてくれた子はどの子だろう。この学校にいるのだろうか。ほかの友達が返事をもらって写真を撮ってもらうのを見てがっかりしているかもしれない。

 

 

クシナガラパブリック小学校
クシナガラパブリック小学校

学校を休んでいる子供もかなりいて、この日は返事を渡せない子も多かった。しかしこうやって一人一人返事を渡しているのを見ていると、スタッフの方が「休んでいても先生に預けるのではなく、必ず後日再訪問して直接手渡します。」と言う意味がとてもよくわかる。自分が書いた絵やメッセージを読んで、遠い「ジャパン」から本当に返事が来た!そしてその「ジャパン」から来たお姉さんが返事を渡してくれ、記念に写真を撮ってくれる。こうやって子供たちが少しでも外の世界の存在に実感を持って目を向けてくれることに意味があるのだと思う。その意味でスタッフの方たちの役割は大きい。

子どもたちが写真撮影をしているのを眺めながら、昨年、現地スタッフのブラジェーシュさんが来日され、日本の学校を回って撮影した写真や動画を、帰国してからいろんな学校の先生方に紹介されて、みんな大変驚愕している様子が会報で紹介されていたのを思い出していた。自分が「こんなもの」と思っていた学校や授業のありようが、外の世界に違う学校、授業のありようがあることを知ったことで、先生たちの中でも何か大きく変わったに違いない。

この日は結局午後からも3校回って返事を渡した。

学校の印象はというと、よくもまあ、こんなところで、と思えるような所ばかりだ。ちょっと押すだけで倒れるだろうなと思える竹を割って組んだだけの垣根のバウンダリー。暗いというよりほとんど真っ暗な穴ぐらのような教室で勉強している子供たち。かと思えば校庭に屋根だけ付けた壁のない教室は皮肉にも校舎の中の教室より明るいが、これから暑くなったり雨が降ったりするとどうするのだろう。机と椅子も、一体どうやって立っているのか不思議なくらい痛んでいる。生徒たちが手で机を支えながら勉強しているように見えた。大柄な体格の高学年の男の子が、小学生が座るような椅子に座り勉強している。膝が机の下に収まらず、見ていて不憫に思う。外で勉強している子供たちは、自分たちのような外国人の姿が見えたり、外で車が大きなクラクションを鳴らしたり、何かあるたびに目を奪われ、気になって授業どころでなくなるようだ。

子どもたちはとても危ういバランスの上にいた。細い足場板に片足を載せて、ちょっと手を引っ張ったり、肩を押せば、たちまち学校という場所からスリップアウトしてしまいそうな中で勉強していた。

考えてみれば、自分などは第2次ベビーブームの世代で、子供の数がもっとも多い中で育った。小学校も中学校もクラスが多く、創立何十周年とかで自分の生まれる前から、子供の自分にとってはまるで巨大軍艦か要塞のような学校が、当たり前のようにそこにそびえ建っていた。確か自分の母校は空港騒音対策だとかで教室にエアコンすらあり、卒業するまでそれがどこでも当たり前なんだと思っていた。きれいな教室。スチールの脚の机と椅子。ランドセルやかばんを入れるために一人一人に割り当てられたスチール棚。ペンキを定期的に塗り替えていつもツルツルだったジャングルジム。子供の自分には果てしなく広く感じられた運動場。その校庭で勉強しなければならないなんて、考えたこともなかった。いくら物価の安いインドとはいえ、あれだけの施設を作ろうと思うと一体どれだけのお金がかかるだろう。

今さらだが自分はただ、恵まれていた、と思った。そして自分が縁を感じたところどこでもいい、自分が受けたその恩恵を、どこかに返さないといけない、と思った。

 

 

 

←2/22の学校訪問を地図上で確認する