レイプの背景


 

デリーのバス車内で起きた集団強姦事件、いわゆるニルバヤ事件から1ヵ月半が過ぎた。ニルバヤとはマスコミが付けた被害者の仮の名前だ。ネット上では被害女性のことを、性犯罪に勇敢に立ち向かう姿を描いたかつてのインド映画の主人公の名前を取ってDAMINIとも呼ばれている。

インドという国は本当に多様で、ニルバヤ事件をきっかけに性犯罪の多さや警察の無能ぶりを批判してインド各地でデモが起きる一方で、まるであの事件に触発されたかのようにバス内で性犯罪を犯すものが相次いで現れた。それらを含め、ニルバヤ事件後のわずか2週間で45件の強姦事件と75件のわいせつ事件が警察に報告されたとTIMES OF INDIAは報じている。インド全土での話ではない。デリー市内だけで、である。

→ デリー、ニルバヤ事件後も性犯罪事件が後を絶たず 

このようなインドで、なぜこの事件にこれだけ注目が集まったのか未だによく分からない。確かにそれは凄惨な事件だった。しかしインドでこのような凄惨な強姦事件は、これまでも度々起きていて報道されているし、この事件以降も同様に起きている。しかしこの事件だけが、特別なインパクトをインド社会に与え、もっといえば被害女性をインドにはびこる社会悪と勇敢に戦って命を落した悲劇のヒロインのように捉える風潮すらあるのだという。

ネット上ではSNSを中心に被害者の写真なども掲載されている。多くは悪気のないものだろうし、親族も実名の公表を警察に望んでいるというから、この辺の感覚は日本とはずいぶんかけ離れているのだが、生前に元気だった被害女性の写真を見ると分かる通り、彼女はデリー西部に住む、ややlowerではあるが中流階級に属する女子学生だった。父親は重機オペレーターをしており、田舎の土地を売って捻出した学費で理学療法士の学校に通わせてもらい、休みの日にはボーイフレンドと映画を見に行く女の子だった。男性はフィアンセではなかったと両親は主張しているが、ややこしい将来の結婚の問題は別として、近年インドの都市部に現れ始めた新世代の若者の姿そのものだった。

そしてこの被害に遭った女子学生の素姓が報道されるに従い、今のインドが内包している、ある社会の構図がうっすらと浮かび上がってきたように思える。連日デリーのインド門などに集まってプラカードを掲げてデモを起こしていた中には、サリー姿の婦人団体だけでなくジーンズ姿の大学生の男女も多かったようだ。直情的に罰則の強化を訴えるだけでなく、伝統的なインド社会の中にある男尊女卑の傾向にも批判が集中した。

そうした批判に即座に反応したのが、BJPやRSSなどのヒンドゥー右派の政治家や指導者たちだった。加害者に厳罰を求めながらも、都市部での現代的なライフスタイルのあり方に疑問を呈する発言が相次いだのだ。

 

「十分に成熟した大人の女性をレイプするのはまだ理解できる。しかし幼児をレイプするやつは死刑にすべきだ」と言って顰蹙を買ったBJPの議員はまあともかくとして、「強姦事件はBharat(ヒンディー語でのインドの呼称)ではめったに起きない。頻繁に起きるのはIndia(欧米の影響を受けたインドという意味合い)だ」というのはRSSの最高指導者の言葉だ。

 

ラジャスタン州のある有名なグル(ヒンドゥの指導者)も「被害者にも加害者と同程度の責任がある。彼女は自分が女であり、か弱い立場なのだから許してくれと懇願していれば、犯人たちも許してあげたに違いない」と発言し、大きな反発を浴びた。

MP州で州政府の大臣を務めるBJP所属の政治家は、インドの叙事詩ラーマーヤナの中の逸話を引用し、「ラクシュマン・レッカを超える女性は罰を受けても仕方ない」と言い放って物議をかもした。ラクシュマン・レッカとは、ラーマーヤナの中で行方不明になった兄ラーマの捜索に出かける際に、弟のラクシュマンがラーマの妻シータの身を案じて、家の周りに引いた線のことである。この線が悪魔から守ってくれると言い残して出かけたが、シータは後に罠にかかって線をうっかり越えてしまったために誘拐されてしまった。つまり家から出て外をむやみにほっつき歩く女はレイプ被害に遭っても仕方ない、という意味合いだ。

同じくMP州の与党BJPの別の大臣も「インド人の女性が欧米人のサルまねをしてジーンズやTシャツに身を包み、酒を飲んだり男とダンスを踊るなんてとんでもない」と公言してはばからなかった。ハリヤナ州のある村のパンチャヤット(長老会議)では、加害者たちが事件の直前に飲酒していたことから、村の中で男性に日没後の飲酒を禁じるとともに、女子にはジーンズとTシャツの着用を禁じる通達を出したのだった。

つまりこのレイプ事件は、インドに潜在していた「欧米の文化をどのように受けとめるか」という命題を巡り、積極的に受け入れている人々と、そうではない人々との対立構図のようなものを奇しくも浮かび上がらせたのだ。

 

この20年ほどで高まった教育熱のおかげで急激に増加した大学生たちは、伝統的なインド社会が抱える性の偏見に気付き始めている。女子学生たちは伝統的なパンジャビドレスではなくジーンズを履き、バンガロールの男子学生は「たとえ女性がスカートを履いても自分たちは強姦したりしない」とわざわざ自分たちが人前でスカートを履いて見せた。これは「性犯罪を防ぐために女子学生の制服のスカートは廃止して、サルワール・カミーズに代えたらどうか」と提言したBJPの議員への反発だ。

 

↓スカートを履いてデモンストレーションをするバンガロールの男性たち。主張はともかく、見た目はかなり、、、(汗)

 

 

一方でヒンドゥーの伝統を尊重し、強調する人々は、ヴェーダの祭式と伝統が今なおしっかりと受け継がれている農村では、女性という性がシャクティ(原始的な性の力)の源として崇められ、決してないがしろにされてはいるわけではないと主張する。

 

匿名性がまかり通る都会と異なり、すくなくとも農村では互いに相互監視の機能が活きているために、むやみに犯罪行為に走れないという一面はあるだろう。しかし村落には独特の社会力学が働いていて、たとえ性犯罪が起きてもなかなか公にならないことも多い。

 

そもそもインドの伝統的な女性観では、女子はあくまでか弱く、男子に保護されるべき存在であり、字も読めず、学問も知らず、力も弱く、早くに結婚して男児を生み、専ら家の中で家事に専念するのが良き妻であり、求められる女性像なのだ。女子がそのようなポジションに収まる限り、ヒンドゥの世界観は調和が保たれ、女性は庇護の対象となる。

 

現代のように20歳を過ぎても学校に通い、場合によっては男子よりも学歴が高くなってしまい、携帯を操り、ボーイフレンドとのデートで帰宅が夜になってしまうようなライフスタイルの急激な変化は、こうした保守的な人々にとっては収まりが悪い世界といえるのだろう。

伝統的なライフスタイルがよく保たれている社会と、都市化、現代化が進んで欧米的なライフスタイルをよく取り込んでいる社会とではどちらが性犯罪が多いのか。前にエントリーした→インドの犯罪白書をもっと読む インドでの犯罪全般の傾向について では、都市部と地方では犯罪の発生率の違いについて、犯罪白書を見る限りでは金品を奪う窃盗犯などについては都市部で多いものの、殺人や強姦などの発生率(認知率)について顕著な差異は認められない、と指摘した。一方、裁判所での記録を確認すると、過去25年間に有罪と結論付けられた強姦事件の75%は地方で起きた事件だとする報道もある。

→RSSバグワット師の主張は間違い:データが裏付け

特に性犯罪については、公にならないものもあるので正確に把握するのは難しいが、恐らくどちらが多いかというよりも、それぞれインドの性犯罪の温床となっていると考えたほうがいいのではないだろうか。

農村を背景とした性犯罪は、カースト・ヒンドゥがダリットの少女を襲ったり、嫁いできた嫁を夫以外の親族が襲うなど、閉鎖的な社会空間で法や正義、警察にさえ訴えが届かない環境で弱いポジションにある者が被害に遭っているケース。娘が外で性犯罪の被害に遭って家に帰って来て親に訴えても、家族に降りかかる不名誉を恐れて親や親族が取り合わないこともあるという。だから田舎での強姦事件は、たとえ公になったとしても事件の発生から何カ月もたっていることがよくある。被害者が周りに何度訴えても封じられることが多いからだ。

一方都市で起こる性犯罪は、希薄な社会関係と匿名性を背景に起きる。ヒンドゥ教徒としての日々の務め(供犠やヴェーダの詠唱など)を怠り、古代よりインド人を支えてきた生活規範やモラルに支障をきたしている。農村では人気のない草むらや林に女性を拉致して行為に及ぶことが多いのに対して、都市ではそのような場所があまりないことから、車に押し込んで郊外まで拉致したり、車の中で犯行が行われることが非常に多い。ニルバヤ事件もそうだった。

ニルバヤ事件の6人の加害者たちは、いずれもどちらかというと多くのインド人同様に厳しい人生を歩んできたらしい。1人はジムのインストラクターのアシスタントという職に就いていたようだが、貧困や家庭崩壊で家出同然に故郷を出てデリーに出てきたもの2人を含み、仕事もいくつか転々とした挙句にバスの運転手、果物売り、バスの掃除係など、社会的には低層とみなされる仕事でどうにか食いつないできた。主犯格の男とその弟はデリーのスラム街に住んでいたが、酒癖が悪くて度々暴れるために家を追い出されたという。住居がなくバスの中で寝起きしていたものもいた。未成年と認定された17歳の少年は小学校を4年でドロップアウトしたのだそうだ。

彼らはデリーという華やかな都市の隙間でギリギリの生活を送りながら、ともすれば自分たちと同世代か、もっと若い世代の男女が人生を楽しんでいる姿に不条理な思いを潜在的に抱いていたのかもしれない、と想像する。

 

少なくとも女は、女というだけで損な役回りに甘んじるものだと幼いころから経験的に学んできたのに、デリーの中流層が暮らす地域では欧米のライフスタイルが浸透し、十分に教育を受けた女子が洒落た洋服を身に付けてショッピングを楽しみ、ファーストフード店で食事し、男性とデートを楽しみ、高い学歴を武器に前途洋々の将来を語る。女が、である。

 

圧倒的な格差社会、決して越えられない絶望的な壁を目の当たりにしながら、何か歪んでいるものを正したいという衝動が彼らにはあったのではないだろうか。。。その衝動自体が歪んでいることを知らないまま。自分にはそう思えて仕方がないのだ。そしてそのように考えるとき、インドにはこうした暗い衝動を心の奥に秘めた加害者予備軍が無数にいるのではないか、と思えて仕方がないのだ。


→ニルバヤ事件を契機に開設されたFacebookのページ、Damini Taqat インド人女性が危ない目に遭った場合の対処の仕方などの情報交換をしている

→危機の際にあらかじめ登録しておいた連絡先に、SOSのメッセージとGPSで測位した自分の位置を一瞬で送信してくれるスマホアプリも登場。その名もNirbhaya.