2/20 ●サイクリングの1日

近所の自転車屋さんに行って中古の自転車を借りた。先日、農村の中にある学校にトイレの竣工式典で尋ねたときに、すっかり周りの田園風景に魅了されてしまったのだ。クシナガラから離れて周辺の農村や畑の中を自転車でまわってみた。道はあぜ道を少し広くした程度のでこぼこ道だ。中にはなぜか昔にわざわざレンガを敷いたような道もあるが、それもでこぼこになっていて却って走りにくい。

麦の畑に菜の花が混じって、一体どちらの畑か分からなくなっているものも多い。しかし麦の若い穂の新緑と菜の花の黄色がどちらも風にさわさわと揺れながら、鮮やかなコントラストを描いている。村の中に入ると、すえたような、それでいて甘い牛糞の匂いが漂ってくる。結構この匂いが自分は好きだ。

 

菜の花、、、と思い込んでいたが、実は芥子菜だと後から教えていただいた
菜の花、、、と思い込んでいたが、実は芥子菜だと後から教えていただいた

 わらを束ねて垣根にしたり、小屋を作っている。その間をレンガ作りの家がぽつぽつと並ぶ。泥だか牛糞だかを塗って作った穀物 の貯蔵庫がいかにも人工物っぽい顔をして立っている。

 

何よりも痛く感じたのは自転車で通り過ぎるときの村の人の刺すような視線だった。3,4人の若者が立ち話をしている。自分の姿を見ると互いに顔を見合わせピタッと話をやめ、自分が通り過ぎるのを息を潜めて待っている。

 

村の人はその辺のわらのかすを集めて 山にしたものに火をつけ、暖をとっている。さとうきびの葉や鞘を乾かして家畜のえさのために積み上げている。あの牛糞とわらを混ぜて燃料用に直方体に形作ったものもあちこちに積まれてある。上半身だけシャツを着た幼児が牛糞をこねくって遊んでいる。大きな水牛が家の前でひもにつながれたまま餌を食んでいる。ここではふつうの牛でさえ小さく見える。山羊の親子などは子供がはねまわっているかのようにかわいらしい。

 

前が見えないほどサトウキビの葉の束を頭に 乗せたサリー姿の女が前からやってきて思わず自転車を止めてはじに避ける。女の後には15,6歳くらいの少女、10歳くらいの妹らしい女の子も一人前の顔 をしてサトウキビを頭に載せて通り過ぎる。しばらくすると、こんどは10歳にも満たないような子供が5、6人、いっぱしに頭の上に雑草のようなものを布に包んで歩いてきた。

村の風景
村の風景

貧しく、何よりも人と家畜の境目が分からない生活。圧倒的な現実を目の当たりにして、自分が一体何をしようとしているのか、自分の立ち位置を見失ってしま うような感覚に襲われる。このままではいけない、という何か胸の中を駆け上ってくるような衝動と、一方でガンジー翁の「インドの魂は農村にある」という言葉がつくづく至言だと痛感するほどの、なんと言葉で言い表せばいいのか、村に漂う安らぎというか、自己肯定感のようなものとを、どのように折り合いをつければいいのか分からなかった。あえて言える事があるとすれば、自分たちが彼らの生活のありようを決定することはできない。彼らだけが彼らの生活のありよう、社会のありようを考え、時に見直し、変えることができるのだ。それにはHuman developmentしかないのだ。